4年前の今日、私は父の病室にいました。
まだ新型コロナなんてない時で、入院している父の病室で家族みんなで一緒に過ごすことができました。
今思えばそれが当たり前でしたね。
父は昭和の高度成長期サラリーマンの全盛期を最大限に満喫し、子供の私から見てもまぁ良く遊び、良く働いた人でした。
出張との名目で北から南までを満喫。平日は麻雀、週末はゴルフに将棋 ⛳
現代パパみたいに毎週末どこかに連れて行ってくれるような子煩悩な人ではなかったけど、とにかく優しくて面白い父でした。
「お父さんは人生に何の悔いもないんだ☺」
「最期は病院で色んなチューブに繋がれるのは嫌だぞ🏥」
「お父さんは酒が飲めなくなったら死ぬからな🍻」
「ゾロ目(66歳や77歳)は危ないからな👼」(近親者でゾロ目の年齢で亡くなった人が多かったらしい(笑))
そんなことを母の作る大好きなおつまみで晩酌をしては陽気に話していました。
色々な病気を重ね、とうとう大好きなお酒だけでなく食事も摂れなくなり、病院へ行くことに。
瘦せ細った手を握りながら「もうこの家には帰ってこれないんだろうな」娘ながらに感じていました。
入院後も全く食事が摂れず、酸素もうまく取り込めないのに、相変わらず冗談ばかり言って看護師さんを笑わせている陽気な父。
その3日後、状態は改善されず私と母が主治医に呼ばれました。
今後の治療方針は人工呼吸器(喉元を切開して呼吸を補助)や胃ろう(胃に直接栄養を届ける方法)の話。
まさに父が望んでいない選択でした。
「父は人工呼吸器や胃ろうは望んでいません。NPPV(気管チューブを用いずに顔にマスクを当てて呼吸換気を行う方法)までやっていただき、改善がなければそれ以上は望みません。」
父の最期を決めたのは私でした。
娘としてはチューブだらけになろうが、どんな姿でも生きている温かい父親の世話をずっとしていたかったのですが、晩酌のたびに言っていた父の言葉は私の脳裏にすり込まれていたようで、迷いなく医師に伝えていました。
そしてその数日後。
痛いも苦しいも言わず、今にもまた冗談を言いだしそうな陽気な顔で旅立っていきました。
「介護は親が命懸けでしてくれる最後の子育て」
精一杯今を楽しむことを、生きる時間は限られていることを、老いて、弱って「こうやって逝くんだよ」と命をもって教えてくれた父。
亡くなる3ヶ月前にお墓を完成させ、母が困らないだけの財を残し、
有言実行「お酒が飲めなくなったゾロ目(77歳)☺」で ‼
一言で言うならば「見事」な最期でした。
そのおかげで私は今もこの仕事を続けることが出来ているのかもしれません。
4年前、父親と病室で観ていた夏の高校野球が今年も始まりました ⚾
もうすぐお墓参りに行くから冗談の1つでも言ってよね 🌻